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赤江瀑『ニジンスキーの手』

  • 2002/11/29(金) 15:39:49

ニジンスキーの手
赤江 瀑
赤江瀑『ニジンスキーの手』デビュー作である表題作ほか4編を納めた短篇集。



赤江作品って現実的に読むとかなり突っ込みどころ満載だったりする。
「そんな事ないだろう」とか「結局どうなのよ」とか。
作者自ら『詳しいことは判らない』とか書いちゃう事もあるし(笑)
でも読んでいるうちに「ま、そういう事もあるかもね」って思わされてしまうところが赤江作品の魅力だと思う。

「ニジンスキーの手」
モチーフはバレエ、そして天才バレエダンサー、ニジンスキー。
デビュー作から既に赤江瀑は赤江瀑だったんだなあ。
これからの作品の特徴が既にこの中に凝縮されている、と言う感じ。
ただ、よく判らなかった点がいくつか。
ニジンスキーの再来と言われそれによって栄光も、中傷もその身に受けながらそれさえも軽々と飛び越えているような主人公・高(こう)に対して、同じ孤児院で育った幼なじみ・徹は高がニジンスキーになぞられることを何故あんなにも怖がっていたのか?
新聞記者の夫婦の存在というのもちょっと唐突。
ただ、「唐突」なのは結構赤江作品にはありがちだけど。

「獣林寺妖変」
モチーフは血天井を持つ寺と歌舞伎。
この作品集の中で一番好き♪
私はこの作品を読んだときにはもう実際の歌舞伎を見ていたのかなぁ?
もしまだイメージの中の歌舞伎しか知らなくて、その一つがこの作品の中の歌舞伎だと思っていたならそりゃあ歌舞伎が好きになるはずだわ(笑)
主役の崇夫(東之助)や努(秀江)よりも脇役の安夫(西江)のキャラが私は好き。
しかし、天井にあの方法で血痕を残すのはちょっと無理があるのでは?

「禽獣の門」
モチーフは能と鶴。
これは始めのうちなんで主役の春睦(はるむつ)は能の家元家の才能ある次男坊と言う設定なのかよく判らなかったけど、後半でそれが生きてくる。
でもやっぱりちょっと前半が長すぎるかな。
この作品でも「こんな生き物ホントにいるのかよっ!」と言う突っ込みもありつつ…(笑)
この作品でも春睦の後見役・雪政が脇役なんだけどいい味を出している。
ラストの「お心置きのう」と言うセリフがこの作品をギュッと引き締めていると思う。

「殺し密狂い密」
モチーフは蜂と…記憶?かな。
記憶のすり替えってよくあるテーマだけど、赤江瀑のゆるゆるした、それなのに緊迫感のある文章で書かれると、その心理戦の中に私まで引き込まれてしまうようなそんな錯覚に陥る。

「恋怨にて候て」
モチーフは鶴屋南北と蜘蛛。
全編江戸言葉で書かれた珍しい作品。
冷静な語り口で淡々と描き出される、希代の歌舞伎作家となった南北に対する語り手である「わたし」の愛と憎しみが相半ばする心情。
その口調が冷静であればあるほど、そこにある感情が濃厚に行間に滲み出てくる。
この作品もラストの2行が秀逸。
この2行のためにこの作品があるんじゃないかと思うくらい。
特に前の一行と合わせて一気に書ける文章を、3行に分けて書いてあるのがすごい。
そしてこの順番で書いてあるところが。
意味は同じなのに、作者がそこに込めた想い、そして読者がそこから受け取る想いは全く違って来る。
人に気持ちを伝える文章って言うのはこういう事なんだな。
ただ、これは非常に文学的な表現なので普通には応用できないだろうけど(笑)

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森茉莉『薔薇くい姫・枯葉の寝床』

  • 2002/11/23(土) 15:33:10

薔薇くい姫・枯葉の寝床
森 茉莉
森茉莉『薔薇くい姫・枯葉の寝床』著者自身をモチーフにした「薔薇くい姫」、男同士の愛を描いた「枯葉の寝床」、「日曜日には僕は行かない」の3編を収録。



「薔薇くい姫」
う~ん…ちょっとイラつく(汗)
言ってることは判るんだけど、あまりにも何度も繰り返されると「もういいです」って気分になってしまう。

「枯葉の寝床」
物語の前半はかなり退屈してしまった。
ギランがレオをここまで愛する理由がよく判らない。
何故かというとレオが「魅力的」に思えないから。
確かに美しいのかも知れないけど…だったら女だっていいのでは?
でもギランは女は嫌いらしい。(そういう描写がある)
だから男、なのはいいけど、だったら何で「女のような」男を好きになるのか?
レオの言動とかってどう見ても「女そのもの」(世界中の女性を集めて濾紙で漉して、更に煮詰めて上澄みだけ取った、みたいな)にしか見えないんだけど。
「男性」または「自分の同性」としてギランがレオを愛する意味、理由が全く判らなかった。
(別に同性愛そのものが判らない、と言う意味ではなく何故レオなのかと言う意味で)

レオが浮気をしたのをギランが知ってからの後半は面白かった。
疑心暗鬼になってレオを責め、そうすることによって更にレオに囚われていくギランと、ギランに恐怖を感じながらも年上のちゃんとした男を翻弄する自分の魅力を自覚しているレオの心理的な闘い、みたいな感じ。
私としてはもっとレオが意識的で、もう少し精神的に強くて、更にずる賢い方が好みだけど。
(このレオという子供は、あまりにも「自分」としての意志がなさ過ぎるような気がして、そう言うところがどうも私は嫌いらしい。)

ギランがレオを殺した後の文章は最初ちょっと長いかなと思ったけど、読んでいるうちにこの物語はこの最後の10ページ余りのためにあったんだと思ったくらい良かった。
レオを失って(あるいは永遠に手に入れて)、自分が生きている意味を少しずつ見失っていくギランの心情が手に取るように伝わってくる。
『或る日ギランは、生きている自分の世界と、死んだ人間の世界とに、あまり差のないことに、気づいた。生きている自分の状態というものと、死んだ人間の状態というものの間に、差がないのだ。たとえば、冷たい、冷めた湯の中から水の中に移るようなものだ。と、ギランは思った。』(P161~162)

この物語全体が、この部分のようにギランの視点で書かれていたらもっと判りやすかったのかも。

あ、あと、ギランが飼っていた犬のエピソードは良かったな。
ギランはレオになんか溺れないで、ボア(犬)を大事にしていられたら良かったのに。

「日曜日には僕は行かない」
基本的な人間関係は「枯葉の寝床」と同じ。
でもこちらの方が文章がシンプルで短くて読みやすくはある。

しかし…やっぱりダメだなあ。

まだまだ全然若くてこれから自分がどうなっていくのか判らないと言う心理状態の時期ならともかく、ある程度年を取って「人間ってやっぱり変わるんだよね」ってのを身をもって経験してしまってからこういうのを読むとどうしても違和感を感じざるを得ない。

今はただ未成熟な、でもそれ自体が今まで見たことのない輝きの片鱗を持つ相手を見いだし、それを自分のものにしたい、と思う気持ちは判るけど…でも、人間って成長するでしょう。
好む好まざるに関わらず、いつまでもその時のままではいられない。
その成長した時になにが残るかってのが重要なんじゃないかと思うんだけど。

これを読む限り、半朱(ハンス)の魅力って「美しさ」とか「計算のなさ」とか「無垢な感じ」とか「傍若無人なところ」だと思うんだけど…これって全部「若さゆえ」って気がする。
じゃあ、その「若さ」がなくなったときにこの恋人達はどうなるのか…?
魅力が単に若さだけの男って本当に魅力的なのかなぁ?
その辺りに共感できないと、この話は読むのがツライかな。

私は立場的には半朱の元婚約者の与志子の母親、みたいな感じ。
いわゆる「常識の中」にいる人って事で(笑)

しかし、この母親(及びその家族)もこんな頼りない男を娘の婚約者にして、その上大事にしていたって辺りがちょっと謎だけど(笑)

これは成長した先を考えるのではなく、ただ「今この瞬間に美しいもの」を味わう作品って事かな。

『七人の武蔵』

  • 2002/11/19(火) 15:27:58

七人の武蔵
司馬 遼太郎 山岡 荘八 光瀬 龍 武者小路 実篤
『七人の武蔵』日本人なら誰でも知っているが、その生涯は謎に包まれている「剣豪・宮本武蔵」。
日本を代表する七人の作家が武蔵を題材に書いた短篇を集めた歴史時代アンソロジー。



私は歴史小説が好きで高校くらいの時から割とあれこれ読んでいるので有名な歴史上の人物だったら(それが合っているかどうかは別にして)ある程度その人物のイメージというものを持っていると思っていたけど、今回この本を読んでみて自分が「宮本武蔵」と言う人がどんな人なのか全く知らないことに気が付いた。
もちろん名前と、あとは「巌流島で佐々木小次郎と決闘した人」と言うのは知っているけど「じゃあどんな人?」って言われてもイメージが浮かんでこない。

この本にはかなり有名どころの作家7人(司馬遼太郎、津本陽、山岡荘八、光瀬龍、武者小路実篤、海音寺潮五郎、山本周五郎)が色々な角度、視点からそれぞれの武蔵を書いた作品が入っている。
その武蔵像が著者によって全くイメージが変わっているのだ。
なので自分のイメージを持たない私はかなり混乱しながら作品を読むことになった。

ある作品では「傲慢で独りよがりな老人」であったり、ある作品では「若いが尋常でない『気』の持ち主」であったり、また「己の過去を静かに振り返る人物」であったり、「落ち着きがあり周囲に気を配る人物」であったり…。
もちろん、武蔵に限らず歴史上の人物が現実にどんな人間だったかは残された資料から推測する他ないわけだから、どんな人物であってもそれを著す人物の光の当て方によって影もあれば光もあると思う。
でも同時に、同じ人物なら普通はこんなにも描かれ方の差は出ないものなんじゃないかなとも思う。
この作品集は読んでいくと全く違う人物の話が書いてあるようにしか思えないくらい、「宮本武蔵」と言う人物像が著者によって変わってくるのだ。

事実、武蔵に関しては信じてもいい史実は「漢文体にでもしたら百行程度」のものしか残っていないらしい。
この本の中の作品『宮本武蔵の女』の中で山岡荘八も
『幻の大剣客ゆえに、われわれ文筆の徒の米塩の資に、どれだけ多く寄与をしたかわからない。』

と書いている。

つまり「判らないからどうにでも書ける」と言うこと。
これじゃあ、私のイメージが固まらないのもやむを得ないか?

そんな色々な印象を受ける作品の中で好きだったのは海音寺潮五郎の「宮本造酒之助」。
武蔵と養子である造酒之助、そしてその弟・伊織との心のふれあいを描いた美しい作品。
海音寺作品を読むのは(確か)初めてなんだけど、すごく読みやすかった。
もっと他の作品も読みたくなった。
ここに出てくる武蔵は思慮深くて思いやりがあって暖かくて厳しい、まさに「父親」そのもののような、割と判りやすい存在に描かれている。
だから「武蔵」としての面白みはもしかしたらないのかも。

一方意味がよく判らなかったのは光瀬龍の「人形武蔵」。
何だか内容的にもこの主人公が武蔵である必然性がよく判らなかったし(武蔵好きには判るのだろうか?)、何より「あのからくりはどうなっているのだ!」と言う謎が…。
あれで終わるなんて「アリ」なの?!納得行かないぞ(笑)
(そういうもんだ、と言われたら仕方ないけどね…)

武者小路実篤も初めて読んだけど…う~ん、よくわからなかった。
文章も句点が多くてちょっと読みにくかったし。
武蔵の相手をしている「俺」と言うのが著者本人であることは判ったけど。
(この作品の著者は実は「直木三十五」であったことが後日判明した。出版社が作品名と作家名を取り違えたミスとのこと)

武蔵を主人公にしたマンガ「バガボンド」も売れているし、来年にはNHK大河ドラマ「MUSASHI」も始まるので宮本武蔵と言う人物は更にクローズアップされていくと思う。
(この本にしてもその辺の動きを見越しての事だと思うし)
特に映像としてのイメージというのは非常に強いから、大河「MUSASHI」が高視聴率なら現代の日本人の武蔵像と言うのはもしかしてこれで決まってしまうのかも。

そうなった後にこの本を読んだら、また違った印象を受けるのかも知れない。

河原敏明『昭和天皇の妹君―謎につつまれた悲劇の皇女』

  • 2002/11/16(土) 15:20:05

昭和天皇の妹君―謎につつまれた悲劇の皇女
河原 敏明
河原敏明『昭和天皇の妹君―謎につつまれた悲劇の皇女』大正4年、大正天皇と卓明皇后の間に昭和天皇の弟として生まれた三笠宮殿下には実は双子の妹君がいた。
双子を生んだ母親は畜生腹と言って蔑視される、特に男女の双子は情死者の生まれ変わりとも言われた当時の俗信の中でその妹君は密かに他家に養女に出され、現在はある名刹の門跡となっている…。
皇室ジャーナリストである著者が100人近い皇室関係者、更には門跡本人にも面会をしてこの噂の真相を解明するために集めた検証をまとめた一冊。



私は特に皇室に詳しいわけでも、一般的な話題にする以上に興味があるわけでもありません。
なので、ここに書いてある事も真実かどうかは判らないし、また別にどちらでも構わない、と言うのが率直な感想です。
そんな私がこの本を読み終わって一番感じたのは「これを発表することによって誰が幸せになるのか?」と言うことでした。

確かに「ジャーナリスト」ともなれば、世の中に秘された事実を掘り出して日の目を当てることが仕事だったりはするのでしょう。
でも、そうする必然があるものと、ないものが存在するのではないでしょうか。
例えばこの本で言えばその双子の妹君がその後不幸な境遇になっている、とか本人またはそれに近い誰かが「書いて欲しい」と思っているならそれを世間に公表するだけの客観的(世論的?)な価値があるかも知れません。
でも内容を読むと、ご本人はその当時も名刹の門跡として尊敬を集めて暮らしているようだし、取材をした人々も「なんで今頃そんなことを…」って様子なんですよね。
著者はそうした取材の様子を「否定するものは少なかった」と事実の裏付けとして書いているし事実その通りなのかも知れませんが、だからといって「ええ!本当にそうなんですよ!」と"よくぞ聞いてくれました"的に積極的に語っている人が殆どいないのもまた事実なのです。
と言うことはこれは近しい人の間では所謂「公然の秘密」であって、それでみんな納得しているいうことなのではないでしょうか。
それを「ジャーナリズム」「真実を伝える」と言った大義名分を掲げて暴いて誰かが幸せになったのでしょうか?

何しろ話が大正天皇の頃の事なので取材対象はみんなご高齢です。
その頃の人たちは今私達が皇室に対して抱いている気持ちとは(その是非はともかく)全く違う気持ちで接していたのでしょう。
更に秘密を知っていると言うことは皇室と密接な関係を持っている人たちばかりでしょうから、その気持ちは普通よりも強かったと想像できます。
その人達が「黙っておこう」と言うことで納得している事実を、わざわざほじくり返す事の意義が私には判りませんでした。

著者は本の副題に「悲劇の皇女」と言う表現を使っており、本文の中でも何度か「不幸な境遇」と言う意味の言葉を書いています。
でも私は(もし本当に妹君だったとしても)本当にこの人が不幸だったのかどうかは本人にしか判らない、と思うのです。
確かに生まれながらに両親と離され親子の名乗りを上げることも叶わなかったと言う事実はあるにしても、当時の皇室では一般家庭のような子育てが行われていたわけではないだろうし、里子に出される子も少なくはなかったはず。
更にきちんと皇女と認められていても幼くして得度して門跡として生きていた人も多かったと思うのです。
逆に門跡は皇女ではいられなかったにしても得度後卓明皇后にも会われたようだし、また他の皇族方とも親しく付き合っていたとの事実もあるらしいし…。
だから「幸せだった」かどうかは判らないけど、同時に「不幸だった」かどうかも判らない。
全ては門跡本人の心の中にだけあることなのでしょう。
それを著者が門跡は不幸だ、悲劇的だと決めつけ「本人に成り代わって自分が真実を世間に訴える」ような書き方をしている事が一番イヤなのかもしれません。

私にはこれを発表した事で門跡が幸せだったとは思えませんでした。
却って落ち着いた穏やかな生活に波風が立った、と思ったのではないでしょうか。
(これも他人の勝手な推測ですが)

この世には私達の目に明らかにされなければならない事はもっと別にあると思うのですが…。

構成についても検証の材料になるのが(いくら100人近いとは言え)殆ど証言だけ、それも当事者ではなく「○○に聞いた」とか「そう言われている」とか言ったもので、あくまで『状況証拠』でしかないのは説得力に欠けると思いました。
そのためいくら真相に近くて状況が<限りなく黒に近いグレー>であっても「真実である」とは言い切れないでしょう。
もっと文書類の物的証拠が多ければまた違った印象になったかも知れません。
私としては最後の最後に付け足しのように出てきた明治天皇の側室だった園祥子女官の実家・園伯爵家での重要事項を記した申し送りの文書あたりのが資料として面白く感じました。

赤江瀑『ポセイドン変幻』

  • 2002/11/15(金) 15:36:17

ポセイドン変幻
赤江 瀑
赤江瀑『ポセイドン変幻』すごく面白かったです。
赤江瀑作品を読むのはかなり久しぶりなのですが、自分の記憶の中にある感覚よりもそれ以上に面白く読めたのが嬉しかったです。

赤江作品に共通するキーワードは「美」「死」「血」「エロス」「狂気」…。
それらが日常と紙一重、表裏一体の向こう側に激しく、同時に静かに存在する様をかいま見せてくれます。
今回読んでみて私はこういう世界がすごく好きなんだな、と再確認した感じです。
色々な作品を求めて本を読んでいて、もちろんどんな作品でもそれぞれに美点も欠点もあってそれこそが面白いとは思うのですが、最終的に私が一番好きな世界はここにある、と言うような世界観です。

今回の「ポセイドン変幻」に入っていた表題作を始めとして6つの短篇はどれも初めて読む作品でした。
初めて読む物語で、どれも違った話なのに、どれも懐かしい気持ちで読みました。
何故かというと著者の話の構成は基本的に同じなんですよね。
「美しい何かに憑かれた人間が、それによって狂い、そして死んでいく」と言うパターン。
その憑かれる程の美しいものが物語ごとにそれぞれ異なっているのです。
「恋牛賦」では牛、「春猿」では歌舞伎、「ポセイドン変幻」ではサメ、「ホタル闇歌」ではホタル、「灯籠爛死行」では織部の灯籠そして「八月は魑魅と戯れ」では人形…。

普段何気なく見過ごしているもの、存在さえも知らなかったもの、美しいなどという視点では見たことがなかったもの、あらゆるものが著者の目と筆を通すことによってかけがえのない「美」として私の前に立ち上がってくるのです。

まだ学生時代に読んだ赤江作品によって、私はたくさんの「美しいもの」を教えて貰った事を思い出しました。
私は幸か不幸かそうした「美」に憑かれるほどの才能が全くなかったので、こうして今でもつつがなく生きているわけですが(笑)

赤江作品の中の狂気は、ただその本人だけの狂気に留まらずそれを囲む周りの人間達もまたその渦に巻き込んでいきます。
それまで何の不満も不安もなく穏やかに生きていたはずの人間が、ある日突然自分の中の狂気に気づく。
そしてその周りにいる人間達も巻き込んで、遂には死に至るまで突き進んでいく…。
そしてそうした犠牲も当然だと思えるような、圧倒的な「美」がそこにあるのです。

この「美に殉ずる」と言う思想は、私の永遠の憧れなのかも知れません。
そう言う意味で赤江作品こそ、私にとって真に「文学」なのかも。

以前読んだときはもっとドロドロしたイメージがあったのに今回読んだら随分サラッと読めたのがちょっと意外でした。
それは作品が変わったと言うよりも私自身が(少しは)成長した、と言うことなのでしょうか。

しばらく忘れていたけれど、これからも大事に読んでいきたい作家を再発見しました。

末永直海『浮かれ桜』

  • 2002/11/12(火) 15:16:31

浮かれ桜
末永 直海
末永直海『浮かれ桜』北村冬馬は女性誌の「抱かれたい男」連続No1を誇る売れっ子俳優。
ブラウン管の中では『好感度不良俳優』を演じているが、私生活では乱暴者で我が儘、付き合って捨てた女は数知れずの本物の『ワル』だった。
今付き合っているAV女優の早見きららにももう飽きてきた上に、昔の恋人・大女優の森山ほのかとのよりを戻したい冬馬はきららとの仲を精算しようと試みるがその結果きららは自殺を図る。
一方、仕事の面でもライバルの出現で不動のものと思われた冬馬の人気に翳りが見え始める…。



著者による文庫版の「あとがき」によると、この作品の評価は賛否が極端に分かれるようです。
読みにくくはなかったので一応全部読みましたが、感想としては私は「否」ですね。

決定的なのは、主役である「冬馬」に全く魅力を感じないって事です。
冬馬は色悪として書かれているのですが、なんかこう…中途半端な感じがしてしまうのです。
別にヤなヤツならヤなヤツでも構わないのですが、それなりにどこか一本芯が通っていないと「魅力」は感じられないんですよね。

冬馬を芸能人に設定するならもっと「裏の顔」と「表の顔」を書き分けた方が判りやすかったんじゃないかなあ。
こんな簡単な芸能人がいたらすぐ芸能レポーターの餌食になってしまうし、それにいくら顔やスタイルが良くても人気No1になんかなれないと思うのですが。
ファンの目はそんなに甘くない、と思うんですよね。
その辺のリアリティはもう少しあっても良かったのでは?と思います。

他の登場人物にも誰一人感情移入出来る人はいませんでした。

冒頭に、幼少の頃の冬馬が父親と乗っていたジェットコースターが脱線して放り出されたが一命を取り留めた、と言うエピソードが出てきます。
そして彼の肩にはそれに関連する刺青がある、と言う記述もあります。
これってかなり印象的なエピソードだと思うのですが、私にはこの話の中で(または冬馬にとって)どういう意味合いがあるのかを読みとることが出来ませんでした。
中でも何度か触れられてはいるのですが「だから何なの?」って感想しか持てなかったのです。

それから途中ギャグと言うか笑わせるような設定やセリフがかなりの頻度で出てくるのですが、これがちっとも笑えないんですよねえ。
却って「さむ~い」気分になってしまうんです…(汗)
笑いのツボは人によって違うので、私には効かなかったと言うことなのでしょう。
これが笑えれば随分印象が違ったんでしょうけどね…。

ラストの歌舞伎仕立ての演出もドタバタし過ぎてふざけている印象しか持てませんでした。

(それから、最初に書いた「文庫版あとがき」の書き方もはっきり言って嫌いです)

石田衣良『骨音―池袋ウエストゲートパーク〈3〉』

  • 2002/11/10(日) 15:13:25

骨音―池袋ウエストゲートパーク〈3〉
石田 衣良
石田衣良『骨音―池袋ウエストゲートパーク〈3〉』池袋西一番街の果物屋の一人息子・マコト。
店番をしながら雑誌のライターをしているが、時々シロウト探偵のような事もやっている。

TVドラマにもなった人気シリーズの第三弾。
表題作他「西一番街テイクアウト」「キミドリの神様」「西口ミッドサマー狂乱(レイブ)」の4作を収録。



やっぱり、すごく好き。
前作みたいにすごく泣けちゃうような作品はなかったけど、どれも作品としてうまくまとまっているし、何よりマコトやタカシを通じて著者が伝えようとしている「人としてまっとうな」物語が胸を打つ。
忘れてはいけない約束、言わなければならない言葉、伝えなければならない思い…別に流麗な文章で書いてあるわけではないけど、すごく「きれいな」物語を読み終わった気分。

このシリーズで一番好きなのは会話。
余計な話はせずに要点だけでビシッと終わる会話がこの物語に緊張感とリズムを与えていると思う。
特にマコトとGボーイズのキング・タカシの会話は、その短さの中にもそれぞれの性格と親しみと信頼が伺えて読むとつい笑ってしまう。
本当にこんなヤツらが守ってくれているのだとしたら、池袋はかなりステキな街だと思う。
まあ、もしそうだとしても私なんかには見えないんだろうけど。

一番好きだったのは「西一番街テイクアウト」。
小さいガールフレンドのために奔走するマコトや、いつもの冷酷な仮面を脱いで優しい声で話すタカシ、商店街のお仲間を巻き込むマコトのかあちゃんの活躍、久々に登場のサルくんなどアットホームな感じはドラマに一番近い雰囲気だったかも。

警察のブラックリストに載っていても、自分の生まれた街を愛していて、それを守るためなら自分が出来る限りのことをやろうと走り回るマコトやタカシにまた会えるといいな。

フレデリック・フォーサイス『マンハッタンの怪人』

  • 2002/11/08(金) 15:08:14

マンハッタンの怪人
フレデリック フォーサイス Frederick Forsyth 篠原 慎
フレデリック・フォーサイス『マンハッタンの怪人』パリ・オペラ座の地下に住み着いていた「怪人」は生涯ただ一人愛した女性・クリスティーヌに愛を拒まれ、絶望の中でアメリカ・ニューヨークへ渡る。
どん底の生活から自分の才覚一つでマンハッタンで一番高いビルのオーナーにまでのし上がった「怪人」は、やがてその街に自分の劇場を造る事を計画する。
そしてそのこけら落としのスターとして招いたのは、かつて愛したクリスティーヌだった。



ガストン・ルルー原作、ロイド・ウェバーのミュージカルで有名な「オペラ座の怪人」の続編です。

「オペラ座の怪人」の舞台は2回見ました。
最初に見たのはロンドン。
海外旅行に行っても、ガイドブックなんかを見て一回は舞台を見に行くんですよね。
特にロンドンはいつでもたくさんの劇場でミュージカルをやっているし、当日でもチケットが取れるので予定がないと2~3回見に行くこともあるくらい。
と言っても、私はお芝居のセリフが聞き取れるほど英語が出来るわけじゃないので、出来るだけ歌や踊りがメインのミュージカル(例えば「キャッツ」とか「スターライトエクスプレス」とか)を選んでもらうわけですが。
(それでも必ず一回は眠ってしまう(汗))
でもこの時はたまたま「オペラ座~」のチケットが取れるって言うのでせっかくだから…と見に行ったのです。
が!案の定、途中で爆睡でした(笑)
確かにセットは豪華だし、歌は上手いし、シャンデリアがガーン!と落ちてくるシーンとか、ろうそくが沢山灯されたオペラ座の地下湖を船で怪人とクリスティーヌが出てくるシーンとかはすごく印象に残っています。
でもやっぱり内容がばんやりとしか判らないと、こういうちょっとミステリーっぽい話はつまんないんですよね。
なので四季が「オペラ座~」をやった時に"日本語だったら判るかな"と思って見に行ったのです。
結果、確かにストーリーは理解出来たのですが、もっと素朴な疑問が残ってしまったのでした。
つまり「何だってこの怪人はオペラ座の地下に住んでいるのか」。
私はてっきり芝居の中で(セリフだけでも)こうした基本的な事を説明してくれているものだ、と思っていたのです。
ところが劇中では最初から「怪人」は「怪人」として理解されているわけです。
でもだとしたらどうしてクリスティーヌはみんなに怖がられている『怪人』に歌を教えてもらうことを了解したのでしょうか?
何だかすごく腑に落ちないわ、という印象が強い物語でした。

この本の「プロローグ」で「オペラ座~」の内容が約2ページ半に簡潔にまとめられています。
これが見事な要約なのです!
私はこれを読んで「オペラ座の怪人」と言う物語がどんな話なのか初めて理解できました(笑)

さらに、本文の中では「怪人」がオペラ座の地下に住みつくことになった理由も解明されています。
ここだけでもこの本は読む価値があるのかもしれません。

フレデリック・フォーサイスと言うとすごく昔に読んだ「オデッサ・ファイル」とか「ジャッカルの日」と言った『社会派作家』印象が強いのでこういう文芸作品も書くのか!とちょっとビックリしたのですが、(昔読んだ時の内容や感想を忘れてしまっていた事もあって)読んでいる間は「フォーサイスだからどうこう」と言う感想は特になかったです。
でも物語が終わった後に書いてある『この物語を書くにあたって』と言う文章でガストン・リリーの書いた「オペラ座~」の矛盾点を一つ一つ検証していくあたりは、『社会派』の面目躍如と言った感じでした。

近藤史恵『若葉の頃は終わった』

  • 2002/11/06(水) 15:06:19

青葉の頃は終わった
近藤 史恵
近藤史恵『若葉の頃は終わった』「ねえ、知ってる?瞳子が死んだんだって」
恋人の法子から聞いたその言葉に玄は衝撃を受ける。
弦にとって瞳子は友人以上、いや恋人以上の存在だった。
そして大学時代を共に過ごした他の4人の仲間達にとっても、美しく気まぐれでそのくせ儚げな瞳子は特別な存在であった。
彼女は何故自ら死を選んだのか。
瞳子の死の理由を探す僕たちの関係は少しずつ均衡を失っていく。



この登場人物って27~28歳って設定なんだよねえ。
…なんだか、子供っぽ過ぎない?
と、人のことを言えるほど私も大人じゃなかった(いや、今でもだけど)けど、それでもここまで子供っぽくはなかったんではないかと。
読んでいる間中、「19とか20歳くらいだったら判るけど…」ってず~っと思っていた。

私は基本的に「好きなヤツは好き、嫌いなヤツは嫌い」っていう非常に単純な人間なので、こういう形で友人に依存したり、思わせぶりな付き合い方したり、傷つけ合ったりする、みたいな関係って考えるだけで「ダメ~」って感じなんだよねえ。

一番判るのは猛かなあ。
一番健全っていうか、当たり前な感じ。
「判りにくい」みたいな書き方されてたけど、こういう豪放磊落なように見えて実は繊細、ってタイプってよくいると思うけど?

一番嫌いなのは弦。
(名前はすごく好きなんだけど(笑))
とにかく鬱陶しい。
ぜぇっっったい友達にならないタイプだな。

でも何よりも分かんないのは瞳子でしょう。
その性格もだけど、あの理由って一体?!

加代の婚約者の部分が一番リアリティがあったかな。
いかにもいそうな「オヤジ」(笑)だと思う。
でも、こんな所にリアリティを感じてるようじゃ私もオバサンな証拠かなあ。

と言うわけで私は全体的に「納得行かない」けど、いろんな事を考えさせられる物語であった事は確かだった。

森茉莉『記憶の繪』

  • 2002/11/04(月) 15:03:50

記憶の繪
森 茉莉
森茉莉『記憶の繪』明治の文豪・森鴎外の長女として生まれ父から溺愛されて育った著者が、その少女時代、家族、最初の結婚、夫とその友人達とのパリでの暮らし、そして最愛の父親との思い出を綴ったエッセイ集。



森茉莉、と言うと高校生の頃には「枯れ葉の寝床」や「恋人達の森」なんかを読んでいましたが(女子高生の定番だった)、「なんだかすごい名前の登場人物だなあ」と思った記憶くらいしかありません。
(こういうのを読んでいても私は、所謂「萌え~」みたいな心境にはならないタイプだったのでした(笑))

なので、著者の作品を読むのはとても久しぶりです。
読んで感じたのは文章が上手いと言うわけではないのね、って事です。
少なくとも読みやすくはないです。
特に冒頭の何行かについて、すごくセンテンスが長くて、その中にいくつもいくつも装飾語や比喩が入っているために何について書いてあるのかよく判らない!と言うものが、かなりありました。
そこを過ぎてしまえば、かなり率直にストレートな表現が多くて読みやすかったのですが。

それから内容は、いわゆる「オチ」はないんですね。
「こういう事があった」って書いたら、普通は「そしてこうなった」とそこから展開するのに、著者の場合は「あった」と書くだけなんですよ。
そこで話はプッツリ終わってしまう。
読んでいる人を盛り上げようとか面白がらせようとかっていう意図は全くないんでしょうね。
でも却ってそこが妙に面白かったです。

題材として印象的だったのはやはり相思相愛だった父・鴎外との思い出ですね。
そのどれもがとてもクッキリした印象で書かれています。

でも、やっぱり一番興味深いのは著者本人でしょうねえ。
なんだか非常に不思議な人です。
子供っぽくてぼんやりしてるかと思うと、観察力とか記憶力は抜群だし。
世間一般の奥さんみたいな事は一切出来ないのに、婚家の家族にはちゃんと可愛がられているし。
大体、完璧主義で潔癖性だった(らしい)父親と、「凄い美女」で家の中と鴎外の仕事を全て切り盛りしていた母親からこんな娘が出来るって言う事自体が一番謎かも(笑)

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